先日、映画『シルミド』を観てきました。2時間半と上映時間は若干長めですが、それを全く感じないさせない勢いのあるフィルムでした。
ご存知の方もいるかとは思いますが、この映画は実話に基づいて作成されています。
-----かつて、それぞれ重大犯罪を犯し、刑務所に収容されていた罪人たち31人は、孤島『シルミ島(ド)』に招集される。その目的は、彼等を特殊部隊684部隊として訓練し、朝鮮半島統一のため金日成を暗殺させることだった。自らの人生をを取り戻すため、数年に及ぶ修練に耐え、精神と肉体を鍛え抜いた彼等。しかしその時間の中で世界は動き、半島統一は実力によらない平和的解決が望まれるようになっていた。そして、極秘に684部隊の抹殺命令がくだり、情報を得た31人は自らのプライドをかけ反乱を起こすが…。-----
…と、いったのがだいたいのあらすじ。事実が全て明らかになっている訳ではないので、想像により物語を作成した点もある、とのことでした。
…とても、考えさせられる映画でした。
物語中の登場人物に一貫して共通しているのは、その動機はなんであれ、「誰かを殺す」ことが、自己実現のための、唯一といってもよい、手段となっている点です。復讐を果たすこと、金日成を殺すこと、裏切り者を殺すこと…。その目的のためにこそ、彼らは生き、あるいは死ぬことができる。…その事実が、私をとても悲しくさせました。
確かに、彼らのその凄まじい人生に共感をし、涙を誘われないわけではもちろんありませんが、そのことが本質では決してなく、「歴史において、ただただ悲しいというより他はないこのような悲惨な事実があった」というそのこと自体が、この物語の訴えであるように感じました。
歴史上、「過ち」は何度も繰り替えされて来ました。過ちを犯さないこと、それは達成されるべき最高の目標だと思いますが、あくまで理想なのかもしれません。「過ち」は宿命的に繰返される性質のものだと、私は思うからです。それでは、私たちはどうしようもないのか。そうではありません。過ちが起きた時、いかにそれを克服する努力をするか、が肝心だと思います。もっともいけないのは、過ちを犯した時、それに向き合わず、放っておくか、あるいは黙殺しようとすることです。
この684部隊の悲劇は、朝鮮分断をはじめとする、そうした歴史上のいくつもの過ちの蓄積を、最終的に黙殺しようとしてしまった政治の結果であると思います。ひとがひとを殺す、ということほど悲しいことはないと思います。まして、それが唯一の生きる糧になるなんて…、ひととしての極限状態すら逸脱してしまっている、そう思います。
政治にはいろんな要素があるでしょう。過ちを過ちと認めては、自国の存立が危険にさらされたり、あるいは様々な駆け引きも必要になるでしょう。そのことを認めるので、私は政治を悪だとは思いません。しかし、ひととして越えてはいけない約束があると思うのです。現在、世界に溢れる様々な問題は、この約束を、「政治問題だから」と言って、どこかに忘れて来てしまった結果ではないでしょうか。ひととしての約束を、心の片隅にも置いておくことすら放棄してしまったからではないでしょうか。
今日はちょっと、真面目な話をしてしまいました。